薬師池公園は、もともとは湧き水を堰き止めたもので、かつては福王寺溜井(福王寺池)ともいわれていました。福王寺とは、薬師池の西側にそびえる大イチョウの横に建つお堂で、野津田薬師堂と呼ばれ、正しくは普光山福王寺(ふこうざんふくおうじ)といいます。このお堂の本尊が薬師如来であることからその麓にある溜井(池)も、いつしか薬師池と呼ばれるようになりました。
薬師池は、戦国時代の末、天正5年(1577年)に北条氏照の印判状が武藤半六郎(河井家祖先)にくだり、水田用溜池として天正18年(1590年)にその原型が完成しました。その後、宝永5年(1708年)土砂で埋まり、大塚村(現・八王子市)、小山村、高ヶ坂村などから人足がでて、3年間を費やし土砂をさらいました。しかし文化14年(1817年)再び土砂で埋まり、ひでりにあえぐ七町余歩(約7ヘクタール)の水田に水を得るため、溜池を掘りなおし現在に至っています。このように、稲作のための灌漑用水として地域の農家の方々に大切に守られ、周りの林は薪を取る雑木林として手入れされてきました。その後、昭和51年(1976年)に薬師堂を除く園地が公園として整備され現在に至っています。
現在の薬師堂は、明治16年(1883年)に建てられた木造総欅造のお堂です。お堂の内外には各所に獅子頭や龍の彫刻が彫られ、屋根を支える贅沢な木組みとともにこの土地の方々の信仰の篤さと薬師如来への帰依の深さを無言で物語っています。中でも正面に揚げられた獅子が抱える鞠の球はくり抜き彫りになっていて、中の球がコロコロと転がります。腕の良い大工さんが、時を惜しまず精魂込めて建てたお堂であることが偲ばれます。
現在は銅板葺きとなっている急勾配の屋根は、昭和の中頃までは茅葺きでしたが、葺き替える際には土地の人々が総出で茅を刈り、屋根に登って手伝ったそうです。
また、堂内では狩野派の絵師狩野信矩(のぶのり)が明治30年に描いた見事な天井絵も観ることができます。入口に近い外陣の天井には墨絵の龍が描かれ、その眼は八方睨みでどこにいても見守ってくれることを表しています。本尊様が祀られる内陣は二人の天女が極彩色の岩絵具で描かれ、それぞれでんでん太鼓と笙(しょう)<の笛を持ち、天界で妙なる調べを奏でています。
薬師堂のシンボルともいえる大イチョウは、推定樹齢はおよそ500年にもなるそうです。高さは約35メートル。胴回りは5メートル近くと堂々たる威容を誇り、昭和51年に町田市の名木百選にも指定されています。イチョウは「火事の時に水を吹く」と言われるほど火に強い木です。多くの寺社にイチョウが植えられているのも、火災から守ってくれることを期待してのことでした。
薬師池の名の由来も、大イチョウが植えられた理由も、数多くの素晴らしい彫刻で飾られたお堂があるものも、すべてそこに薬師如来様がまつられているからです。秘仏である薬師如来像は、高さ70センチメートルほどの欅の一木造りの仏様です。寺の巻物によると天平年間の作とされ、学術調査でも平安後期の作と推定されています。昭和62年には、町田市最古の木造仏として市の有形文化財に指定されました。螺髪(らはつ)や衣のひだなどの細部の表現が省略された素朴なお姿の仏様で、素人的仏師の作と考えられます。秘仏の厨子の扉が開かれるのは12年に1度、寅年の春のひと月ほどの間だけです。その際には近在する20数ヶ所の秘仏薬師如来が一斉に開扉され、多くの方々が巡礼に訪れます。
江戸時代後期の天保年間に大飢饉が起こった。町田市域も例外ではなく、このため多くの人が飢え、潰れ百姓が多くでた。とくに天保7年(1836)の飢饉はひどく、5月は長雨が続き、7月、8月には台風も加わって大雨の日が続いた。このため、作物は実らなかった。毎日の雨で、薬師池の水は満々とたたえられた堤防は今にも決壊寸前だった。
野津田村の百姓弥兵衛は、しとしと降り続く雨の中を水田の見廻りにでかけた。薬師池の水門までくると、暮れ6つの鐘の音が聞こえた。薬師池の方を眺めると、田舎にはまれな美人が蛇の目傘をさして近寄ってきた。
「ちぇっと、ものをお尋ねしますが、由木(現・八王子市)の長池に行くにはどうのような道順をたどっていけばよいでしょうか」と透き通るほど澄んだ声でものやわらかに弥兵衛に尋ねた。弥兵衛は丁寧に教えてやった。その娘は厚く礼を述べて立ち去っていった。
弥兵衛もわが家に向かったが、この雨の降る日暮れに若い娘が由木まで行くのは大変なことだと思い、どうしても今の娘が気懸りになり後を振り向いた。その瞬間、弥兵衛は驚きと恐怖で目がくらんでしまった。今教えてやったばかりの坂道を、直径30センチメートルもあると思われる大蛇がすべるような速さで由木の長池の方向を目指して、一目散に直進していく姿がはっきりと目に映ったのである。
さては、先の娘は弁天様の化身であったのかと、驚きと恐ろしさを背に浴びながらやっとの思いでわが家にたどり着いた。それ以来、薬師池の水量は次第に減り、堤防決壊の災難をまぬがれたという。
この話は、薬師池にまつわる伝説で、薬師池の主といわれた大蛇はその後も長く棲息した。昭和初期ごろまで、野津田や山崎の人は、晴れた日に銀杏の大樹の上にとぐろを巻いたり、枝渡りしたさまを見たという。
| 参考資料 | 町田市公園緑地課(作成協力:華嚴院) |
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